DIE HARD 3 - 借金苦、家族と母親の問題の話
「自分は誰からも愛されない、一番に必要とされない」
という思いがキレイに晴れたのは、ほんとうにほんとうにここ数年のことです。
前回にも書きましたが、わたしの心の内はおいといて、高校時代の学生生活・環境そのものは平和でした。
小・中学生と違っていろんな地域から人が集まり、勉強レベルも似たような人が集まっていたため、なんとなくイイ意味で普通~牧歌的な空気でした。
そして大学一回生の約一年間、この世の春!みたいに、ほんとうに楽しい時間を過ごしました。
いわゆるリア充です。
この一年間だけは「自分は誰からも愛されない、一番に必要とされない」という思いを完全に無視できていました。
そうです、無視なんです。
問題が昇華できていたわけではないのです。
二回生くらいから、また暗い空気がわたしを包み始めました。
逃げるように、引きつづき、読書読書読書、映画・アニメ鑑賞・・・この頃には行動範囲も広がり、バイト代も入り、大学図書館も利用できるようになったので、今まで以上に大量にそれらを吸収していました。
それというのも、前々回うっすら書いた家庭不和はこの時もまだまだ顕在で、そのうえ高校の時には母の店がバブルのあおりで経営難に陥り、とにかく家にお金がなかったのです。
(そんな中で大学まで出してもらったことは今でも感謝してます)
高校や大学の友達が親のお金で海外旅行や留学に行くのを、お金の心配をしないで生きていることを、ほんとうにうらめしくうらやましく、絶望的な気持ちで眺めていました。
毎日毎日お金の心配をして、人をうらやんでしまうような生活は、自分がちっぽけでいじましく、いやしいさもしい存在な気がしてくるのです。
暗い気持ちで就職活動をしましたが、大きな会社に入れました(といっても当時のITですからブラックです)。
時はITバブル、卒論のテーマをITにするほどそっち方面が大好きだったわたしは、その勉強ができた上にお金がもらえてラッキーと思いました。この目算は当たり、この時得た技術で、ここから自分自身でのお金の稼ぎには困らなくなりました。
漫画家になる夢はまだ抱きつつ、仕事の合間に描こう!とりあえずお金を稼がねば!ごはんを食べなければ!でした。
でも・・・わたしが稼げるようになったら、経営不振で借金を背負った母がお金の面でわたしを頼るようになり始めました。
朝起きてすぐに「お金貸して」と言われるのです。
朝から絶望的な気持ち。
その頻度がどんどん高くなり、最終的に預けていた預金を全て使い込まれていることが発覚しました。
怒ったら、泣きながら「仕方ないやん!」的な逆ギレされました。
親に子どものように泣かれる程つらいこと、やるせない気持ちってないように思います。
それ以上、なにも言えませんでした・・・
同時期、一緒に住んでいた従兄妹たちは就職と共に家を離れていたのですが、片方が借金まみれで会社を辞めてどうしようもなくなり、また一緒に住むことになりました。反対しましたが、無理でした。仕方ない借金ではなく遊興費の為の借金です。やがて借金の取り立て電話がとまらなくなり、最終的には自己破産となりました。
そこらへんから、20代の全て、ちょっと記憶がないくらいのぐちゃぐちゃな生活でした。
読書への逃避だけでなく、クラブ通いやライブ通い、お酒も死ぬ直前まで飲み、男性関係もぐちゃぐちゃ、ここで大っぴらに書けないような色んな遊びもたくさんしましたし、バックパッカーもして海外にも行き始めました。
会社も辞め、派遣社員を転々としていました。
母にお金を渡しながらも、そのことから逃げるようにバカみたいにお金を使い、遊び、わたし自身にもお金が無くなり、友だちの結婚式に行くお金もなく、気楽に借りれてしまう消費者金融カードを作り借金し始めたのもこの頃です。
そして、30歳になった頃「チョコレート嚢腫」になり、片方の卵管と卵巣を取りました。緊急手術で選択肢なしでした。
どう考えても、20代後半の無茶苦茶な生活がたたったのでしょう。
その時もお金がなく、激痛で車いすで運ばれながら看護婦さんに「手術や入院費はどれくらいですか?すぐ払わなければなりませんか?分割はできますか?」と聞きました。
痛みよりなによりお金の心配・・・。
そして手術は肉親の立ち合いがないと行われないのですが、母は「仕事があるから無理。大丈夫やんね?」といったありさま。
その時、心の友Mが来て、立ち会ってくれました。
小さな子供が二人もいたのに、どうやってそんな急な都合をつけてくれたのかわかりませんが、ともかく手術中と、わたしが麻酔から目を覚ますまでいてくれました。
次の日に目を覚ますと、心の友Yがベッドの横で本を読んでいました。
「ありがとう」と言うと、「寝てていいよ~」とやさしく言ってくれて、そのまままた記憶が落ちました。
別の日にもまた違う心の友たちが来てくれて、ちょうどクリスマスの日、笑って楽しく過ごせました。
他にも、入院中ずっとメールで励ましてくれた、自分も出産直前で同じく入院してた友だちもいました。
そうです、暗くてぐちゃぐちゃな生活だったりしたけど、いつの間にかそんな友だちができるようになっていたのです。
そんな中、入院中ベッドでぐったりのわたしは、必要なものを持ってきてくれた母に
「摘出した細胞が悪性やったら子宮とらなあかん可能性もあるみたい・・・あ、でも、病院代は、会社の高額医療保険でなんとかなるし、それ以外にも保険が降りるからプラスになるかもやから、心配せんといて。」
と言いました。
母はそれに
「え~ほんなら、そのお金ちょうだいや!」
と返してきました。
もしかしたらガンかもしれない、転移してたら子宮どころじゃない、死ぬかもしれない、そしてそもそも手術したてで弱ってる人間に、子どもに、その返事かい!!!
まだ、金!
そうです、そもそも、うちの母親が問題だったのです。
当時言われ始めていた「毒親」というもの、うちの母がそれだと認めるのに、ものすごく時間がかかったのです・・・