eri koo Blog

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DIE HARD FINAL - 毒親、ピル鬱、そして和解の話

当時、親の借金を抱えて苦しんでいたわたしは、ちょっとした質問サイトにそれを投げかけてみました。
すると、今はメジャーとなった「債務整理」という方法と共に、
「そもそもあなたが背負う必要ないよ。あなたの母親は『毒親』だよ。本を読むといいよ。」
という返信をもらいました。

それは、とても、衝撃でした。
わたしの中になかったのです「母親=ダメな人」という発想が。

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だって、臨月迫る時に父が亡くなって、そこから女手一つで自分の店をきりもりし朝から晩まで働いて、わたしと従兄妹二人を学校に行かせたり(伯母は家のことと母の仕事を手伝う母親的役割をしていた)、みんなが住む家を買ったり・・・そんな立派な母親・・・そんな母が、ダメな人・・・毒親・・・?

そして、わたしがしんどいのも、言葉にせずともわかってくれてる人だと思ったのです。

でも、前回書いた入院中のベッドのやりとりで、これは・・・なんかおかしい!あかんかも!と、ようやく気づき始めて。

 

erikoo.hatenadiary.jp

 


そして、別のある方に「あなたの母親は、あなたが小さい時からしんどい思いをしてきたことを、なんにもわかってないよ」と言われたことも、なんだか腑に落ちすぎて、確信にいたり・・・

退院して、保険のお金が降りて、その足ですぐ、わたしは家を出たのです。

一人暮らしは、自由でした。
ちっともさみしくありませんでした。
のびのび!!

自分で仕事して、家賃や光熱費を払えて、ご飯食べて寝て、生活できている・・・経済的に成り立っている、そのことに、ものすごく自立と自由を感じました。

自分で自分の食事を作ったり、生活リズムを創れるようになったので、自分の思うような健康療法を始めたり、暗かった人生を明るくするような取り組みを始めました。
(それについては、別で書いていきます。そもそもそういうのを書くために、この発信を始めたのです!)

母親と距離を置くことで、どんどんとわたしの人生に光が射してきました。

そんな中、再び手術した箇所が痛み始めました。
生理痛も重くなり始めたので、手術してくれた病院に行ったところ、当時の先生たちは全員いなくなっていて、なんだかいまいちな婦人科の先生に当たりました。
痛いと言っても「じゃあ鎮痛剤出しますね」
いや、それじゃ効かないんで来たんですと言うと「じゃあもっと強い鎮痛剤出しますね」
いや、そいうじゃなくて何故痛いのか原因を知りたいのと、治したいんです。痛みを止めても治療じゃないですよね?と言うと「じゃあ、神経科に回しますね!子宮頸がんの検査もしますね!」という回答。
結局どう考えても関係ない神経科は拒否しましたが、激痛の子宮頸がん検査は受けることになりました。

(これは後に、ちゃんとした婦人科の先生に「あなたの年齢(当時32歳くらい)で出産もしてないのにそんな検査必要ない!」と言われました、お医者さんにも当たり外れがあることを知ったのもこの頃です、この辺りまた別で書きます)

そして結局ピルを処方され生理を止めることになったのですが、直後からびっくりするくらいの落ちこみとイライラと気持ちの不安定が始まりました。

はい、ピルの副作用で鬱状態になりました。
コントロールできないんです、感情が。

その状態の中、ある日、実家に戻り母と話しているときに感情が高ぶり、わたしの中の何かがはじけました。

母の正座してる膝に無理矢理つっぷして、頭に手を置かせて、おいおい泣いたのです。
母は、仰天して何も言えませんでした。
よく考えたら、悲しい時に誰かに抱きしめられて泣く、といったことをしたのが人生で初めてでした(無理矢理させたわけですが)。子どもの頃にそんな記憶もありません。

その後、幼い時からの想いを「最後まで黙って聞いて!」と言って母の反論を許さず、思いつけること全部ぶちまけました。
従兄妹たちと常に差をつけられ比べられ続け褒められた記憶がないこと、母の知らないところで伯母からの呪詛を受け続けてた確執、ややこしい親戚(困難な人が多い)から助けてくれなかったこと、小さい時にわたしより恋人を優先してたこと、借金のこと、病室でお金ちょうだいって言ったこと、わたしを何も理解してくれないことなど・・・まぁまぁたくさん。

その時、母親は言ったのです。
「全然知らんかった・・・あんたがそんなにしんどい思いをしてたなんて・・・わたしがさせてたなんて・・・」

えええええ!マジか!?
です。
全然!?やっぱり!?ほんまに!?

ああ、親って他人なんだ!
創作物に出てくる母親、優しくて理解してくれて見守ってくれて、あれは理想形なだけだ。全員じゃないんだ、少なくとも目の前の、わたしの母親はそうじゃないんだ!
そうか!そういうこともあるのか!!!
そんな母親もいるんだ!!!

と、やっとわかったのです。

そして、母は「ごめんな・・・」

とあやまってくれたのです。

この時、わたしもまた、ようやく母を「母親」という生き物ではなく、普通の人間として他人として見ることが出来て、親ばなれができたのです。

34歳にして、親の膝で泣きじゃくって、ようやく。

もちろん、この機会を作るためだったかのようなピルはすぐにやめました。

そこから、母と相談して持ち家を売りました。
それで借金は完済、わたしが貸したお金、使い込まれたお金は全部回収しました。親子であっても他人、ここで借金をきちんと返してもらうことが、関係を健全にすると感じました。

タイミング良く、わたしは派遣として勤めていた大きな会社で正社員となり生活が安定。

ようやく、お金の心配をしなくていい日々がやってきたのです。

母親に理想を求めるのをやめ、良い部分でだけつきあうようになりました。
理解してもらおうと説得するのも説明するのも、ほとんどやめました。
親孝行しなければ罰が当たる、と、なにやら呪縛がありましたが捨てました。罰が当たろうがどうでもいいです、今ここのわたしが健全な気持ちで母に接し、健やかにいることが最優先です。
介護と看取りだけは人として務める予定ですが、なるべくお金で解決してたくさんの人に頼りたいと考えています。

今は、母親とはできうる限り距離を取る形で良好に過ごせています。

父の死のショックをひきずりながら女手一つで育ててくれたこと、若いうちは母も必死で、且つ困難な親戚だらけの問題をほとんど母が背負ってきたことなど・・・尊敬も感謝もしています。

伯母や従兄妹ともほとんど縁がきれました。

そんなわけで、人生の困難な時期とその具体的解決はあらかた終わりました。
これがだいたい34歳くらいの話です。

わたしの人生はだいたい30歳までが無意識と環境の困難な時代であり、病気と家を出たことをキッカケに、そこから10年間は心と身体と魂の大掃除と解決、そしてそこから自分がどうしたいか、どう在りたいか、もっともっと楽に楽しく平和に生きるには、自分自身をより発揮するには、という「道」を見つける時間となりました。

そして40歳くらいの時にようやく自分の「道」らしきものを見つけて2年ほどで今に至ります。

とりあえずその34歳までの「DIE HARD」な時期のお話は、今回で終わりです。
「DIE HARD」はもちろん大好きな映画から、どんな状況でもあんな風に生き抜くサバイバーでありたいこと、もしくは、はよ死にたいのに「DIE HARD=なかなか死ねない!笑」というわたしの過去の比喩でもあります。
あ、人生に絶望してはよ死にたいのではなく、はやく精神体だけの自由な感じになりたかったなぁという前向きで明るい意味ですよ。

今は、この肉体の期限が切れるまで存分に楽しみたいと思ってます!

世界にはもっともっと困難で大変な状況の人達がいるのに、とか、不幸自慢になるのかなと、とか、自分語りどやさ、とか、いろんな思いがありましたが、Facebookなどで優しいコメントもいただき、なんとか書ききれました!

読んでくださって、ありがとうございます!

次回は、わざわざ長々とこんなことをなぜ書いたか?をお伝えする、エピローグとなります♪

https://www.instagram.com/p/BZSMoPjgQhV/

いつの日か I'll be there.