それでいいのだ!? - 神ってなんだよ!の話
神ってなんだ
ココはどこだ
世界ってなんなんだ
わたしって一体ナニ?
いつだってそれが知りたかった。
そればかり考えていた。
真理は個々に存在し、全ては同じものであり、かつ、真理は一つである。
まるでパラドクスのようなこの言説は、密教の曼荼羅、金剛界と胎蔵界を現した言葉。
要するに「あなたとは、この世とはこうである」を現したもの。
難しい話や、宗教論議をするつもりはありまへん。
わたしにとっての読書や、聡明な方との対話は、あくまで知的好奇心を広め深めるためのもので、知識量の優劣や正誤論議のものではないからです。
わたしも、自分の肉体を通して、42年間生きてきて感じたこととして、そう思います。
世界は、神は、わたしである、と。
それでいて、それは、あなたでもある、と。
そこにあるティーカップであり、椅子であり、わたしの肉体を出入りし変化する空気、それら一つ一つが神であり世界であり、それら全てがまたそうである、と。
さて、じゃあ、自分が神だとしたら何でもありなのか?
犯罪を働き、人を傷つけても?
想像してみよう、本当に全てが自分の思い通りになる世界。
望むもの全て、モノも愛も、地位も名誉も、人を貶めることなく傷つけることなく、手に入るとしたら?
どこにでも行けるし、何にでも成れるとしたら。
なにもかも無限に手に入った時、なにも欲しいものがなくなった時、そうして暇を持て余し始めた時。
人は、きっと、何かの役に立ちたくなる。
誰かに、喜んでほしいと欲する。
それが、パンドラの箱の希望のように、最後に残る純粋な願い。
性善説ではない。
もしかしたら、どこかでバグのように生まれ出る、それを持たない人間もいるかもしれない。
でも、ほとんどは、生まれ出た後の環境がそうさせた。
圧倒的に愛が欠けた環境が、欠落を生んだ。
それらは愛を知らずに育った。
神は、全てを持つ、満たされている。
愛そのものであるから、敬われる必要がない。
讃えられる必要がない。
自分の外にあるものをどうにかする必要がない。
人を傷つけたり陥れる必要がない。
どんどん際限なく物を買い、買っても買っても満たされないサイクルに運んで、どんどん働かせ、感じて考える時間を無くし、神を外側に作り、神と人を分離させ、外にある神を崇拝させ敬わさせ、それをもってコントロールする。
そんな、権力者や議政者による仕組み。
生贄を必要としたり、何かを強要したり強制したりする、そんなものが神なら、われわれは、わざわざ肉体を持って生まれ出てきた価値があるか?
少なくとも日本人の中にある神様のイメージは
違う。
それは、慈愛そのもの。
困っている人は助ける。
やさしくする。
寛容。
千手観音はその無限の御手で人々をあますことなく救う。
地蔵菩薩は地上の人々が修羅になり畜生道に落ちようが、もがき苦しむ真っ只中のすぐ側にいて救ってくれる。
山にも川にも海にも大地にも、畑にもトイレにも台所にも、一本の筆にも無数の神様が宿っていて、人間の営みを、その安全を見守ってくれている。
そんな感じのものが、やっぱり、神様だ。
(荒ぶる神については話がずれるので今回はさておき)
そんなものが、全部、自分の内にある。
今一度考えて見てほしい。
自分が神だということを。
あなたがしたくないことはしなくていい。
宗教、政治、テレビ広告、有識者、親、兄弟、子ども、友人・・・外側の何かに従わなくていい。
したくないことはなんだろう?
とことん感じて考える。
「常識」は人間同士が作ったルールだ。
権力者が奴隷から、より搾取するためのものだ。
例えば、学校へ通うことも、仕事することも、結婚も子育ても、親孝行もなにもかも。
したくなければしなくていい。
死なない。
「それをしなければ死ぬ」
以外のことは、本当はしなくていい。
突きつめると、死ぬことさえ自由。
そうやってしたくないことをしない、を始めると、そこから、本当にしたいことが勝手にあふれ出てくる。
(たぶんね)
外側の神を、教祖を、有能な占い師や霊能者を、敬い、奉り、崇拝し、ご神託のように言われたこと、その通りだと思い込む。
人の叡智で作られた術で出された運命表を、動かせないものとして盲目に飲み込む。
自分で思い込んでがんじがらめになる。
自分の本当の思いを封じ込める。
動きが鈍くなる。
本来それらは、自分の内が、外に現れてくれる良きアドバイスだ。悩み苦しみ、自分の内なる声が聴こえなくなった時、助けてくれるものだ。
あ!それ!深いところでそうだと思っていた!
思い出せた!
気づいた!
アドバイスを受けて、明るい気持ち、前向きな気持ち、スッキリと爽やかに行動に移したくなる気持ち。
そんな風になるためのもの。
そのために、時に、頼る。
でもそれは、ご神託そのものをありがたがるのではなく、ご神託というカタチで、あなたの内なる思い、内なる神の声を現わしてくれたものだということを忘れないでいることだ。
逆に、どんなにももっともそうな言葉でも、拒否してもいいのだ。
自分が違うと感じるならば。
そうしたくない!と思うなら。
運命は、あくまで自分の手の中であり、世界は自分なのだから。
その拒否もまた、拒否する自分を見せてくれる現れ。
その出会いに、感謝する。
このタイミングでそれを思い出させてくれて、本当にありがとう、と。
外側に現れた自分、それを現してくれた、目の前の人、またはチャートに、書物に。
純粋な感謝。
そしてまた、自分を生きる。
自分という神に、従い、敬う。
生きたいように生きればいいのだ。
もっかい言う。
親孝行なんてしなくていい。
学校なんて行かなくていい。
嫌な仕事はしなくていい。
結婚も子育てもしなくてもいい。
したくないなら。
したいなら、したらいい。
なんでもいいのだ。
それでいいのだ。
全ては自由だ。
全ては一つだから。
全てが一つということは、在るし、無いのだから。
だから。
血と肉を持って生まれでた事を十分に楽しんで、好きに生きたらいいのだ。
と、わたしは感じ、思っています。
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eri koo(エリ・クゥ)
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