世界の中心はたくさんある
小学生の頃。
ふと、授業中に握りしめていた鉛筆に意識が向いて。
この鉛筆って木で出来てる。
なら、木を切った人がいて、それを運んだ人がいて。
それを加工した人がいて、この表面につやつやと塗られた塗料を作った人がいて。
その塗料の原料を採取して運んだ人がいて、そこから色んな色を作った人がいて。
それぞれのパッケージをデザインした人、説明の文字を書いた人、作った人、売った人、
値段をつけた人。
そもそも鉛筆という存在をこの世に生んだ人。
街の文房具屋さんに運ばれて売られ、自分の手にわたって。
関わった人にはそれぞれに家族がいて、友だちがいて。
またその家族や友だちそれぞれにも、同じように家族や友だちがいて。
気がつけば身の回りにある全てのモノが。
このノートも、黒板も、机も、窓も、目の前の級友が座ってる椅子も。
同じように、おびただしい数の人間が関わって作られて、そこに木や水や石油やあらゆるマテリアルが使われて。
倍々ゲームどころではない、もっとたくさんの糸が無数の蜘蛛の巣のように世界と繋がっていくような感覚。
果てしない数の人間が、たった一本の鉛筆に連なっていること。
そして自分を取り囲むモノもヒトも、たった一本の鉛筆だけではないこと。
そのことに、ぞっとして足元が抜けたような、歪んだような感覚がありました。
自分の他にも「ヒト」や「存在」があることを認識した瞬間だったのかもしれません。決して一人では生きていないということ。
それはちょっと、恐ろしい感覚。
中学生の時。
道を歩いていて、ハタと横にいた友人にも「意識」があることに気が付きました。
今まで「意識」があるのは自分だけだと思っていました。
もちろん中学生です。
狭い世界なりに色んな人と話したり遊んだり接したりしている。
目の前の人が自分とは違うヒトで、違う考えや好みをもって生きていることも知ってはいた筈。
だけれど、世界の中心は自分だけなのだと思っていたようです。
頭の中は自分のことだけでいっぱいで、他の人にもそういった「意識」があるとは考えてもいなかったのです。
他の人もまた、世界の中心に立っているんだと気が付きました。
でも、世界の中心は一つで、そこには自分が立っています。
え?それなら世界の中心は一つではないの?
この世は一つではないの?
自分の立つここが中心ではないの?
なら誰の立つ場所が世界の中心?
その答えを導くにはあまりにもオツムが弱く。考え続けるも結論は出ません。
(今だって出てなくて考え続けているのです)
その時もまた、立っている足元がぐらつくような、今まで信じていたものが本当は「無かった」と知ったような感覚になりました。
いつまでも落ちていきそうな浮遊感。
この世のなにが真理かなんて、知りようがありません。
たまに、こうやって、これまでの考えや自分の中での世界の捉え方をゆるがすような気付きがあります。
それは自分で単独で、ハタと世界が違って見える瞬間を掴む時もありますし。
読書など人の考えによって覆さえる時もあります。
でもそれは怖さと共に、至上の喜びを感じる瞬間でもあります。
世界が崩れ落ち、新しい世界が見えるのですから。
極上の旅のようでもあります。
まだまだ世界は広かったことを知るとか、そういうものに近い。けれどもっともっと大きい体験。
それは不思議と、何十時間も飛行機を乗り継いで行った先でもたらされるのではなく、何気ない日常で発見されます。
久々に価値観をゆるがすような本を読みながら、そんなことを思い出しました。
人間の知性とは計り知れない。
そのことが嬉しくてなりません。
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