偏屈オヤジにならないように
コロナの自粛期、日常で会う人やメッセージでやり取りする人がごく僅かに限られました。
本当に交流したい人とだけ、交流する。
そうして、ほとんどの時間を自己内省とやりたいことにつぎ込んで。
世界もまた休んでいるので、ほんとうに気配が静かで。
それは、外的刺激が人より何倍も勝手に入ってきてしまうわたしのような気質にとっては、静かな至福の時でした。
けれど、日常がリ・スタートするとそうしてばかりもいられません。
ランダムに、合う人合わない人、興味のわく人わかない人、数限りなく出会いすれ違っていきます。
自己内省とやりたいことばかりに時間を費やすわけにもいきません。
そして経済活動の再開と共に、空気もまたガヤガヤとうるさいものとなっています。みんながみんなスイッチオンでいろんな気配が飛び交います。
そうそう、そうだった。これが人生。
否が応でも、そんな社会の中で泳いでいかねばなりません。
だからといって、特別しんどいわけではないのですが。
ただ、少々自分というものが色濃くなりすぎた感はあって。
好き嫌いのコントラストが強すぎるし、直感も以前より増して一瞬で判断を下してしまうので「余地」がなくなってしまう。
なんというか頭の固い偏屈オヤジみたいに「ケッ、気に入らねぇな?」が多くなっている気がしています。これはマズい傾向。
だって人って、第一印象がダメでも喋ってみると案外良い人だったりするし。気が合わなくとも楽しい会話をすることだって出来るし、良い情報を得たり良い交流ができたりもする。人だけでなく、物事だって同じ。
そんな風に考える「余地」をすっかり忘れてしまってたので、そろそろと調整して思い出している最中です。
なにごとも、真ん中くらいでバランスをとるのがよろしい。
中庸とはそのこと。
自分の好き嫌いをハッキリさせてごく少数とだけ交流することも、好き嫌いなく誰とでもまんべんなく仲良くできることも。
どちらも良し悪しなく好みの問題。
どちらか一方だけを選択する必要もなくて。それはマーブル模様にように混ざり合い、日によって、時と場合によって使い分けていく。
人の個性によって、そのパーセンテージは違って、内向的な人は前者の比率が高くなるだろうし、超外交的な人は後者比率100%かもしれない。
「今」のわたしで言うなら前者80%をベースに「余地」として20%の人見知りなく外交的な部分を残しておく感じ。
自分なりの丁度いいバランスをとるのが中庸なのでしょう。
それでも、一旦濃ゆくなった自分の好みというものは、なんだか自分を強くしたようで。
スッキリハッキリと自分を捉えることが出来たことは、人生をよりシンプルにしてくれたように思います。
極と極に針がふれたり、三歩進んで二歩下がったりしながらも、なるべく自分の真ん中の道を歩いて行きたいものです。
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