三位一体、心と身体と魂とはなんぞや2
心と魂と体と。
人間を構成するものは三つのうち、体と魂の話を前回書きました。
そして心。
心には「自我」と「感情」がある。
どちらも癒着するくらいに噛み合っているので、分けるのは難しい。
そこに身体的な「欲」も絡んで、すべてがごっちゃごちゃになる。
それらがそれぞれ違うものだと感じるようになるには、身体的な欲が少々沈静化する年齢になるか。
あるいは修行僧のように欲を滅して、そのように分離して物事を見れるように励んで成功するか。
あるいは元から、感情や自我、欲のどれかが薄いか。
ともかく、どれかの活動が多少なりとも落ち着くと、なんとなく見えてくる。
例えば恋愛にしたって。
それは生物学的本能で、生殖し子孫繁栄のためのものだと言うけれど。
それだけではない。
自分という自我を、他者に受け入れてもらい好んでもらったときの、幸福感。安心感。それらを得たいという欲。うれしいという感情。
もちろんそこに性欲も混じっている。むしろ、10~20代なんて恋愛のほとんどの要素が性欲が化けたものだとも言える。
そういう意味では生物学的本能というのは確かに正しいけど。
やっぱり、それだけではない。
話がそれるのでちょっと例に出すだけだけれど、LGBTや、性欲そのものがない人だってあたりまえに恋愛するし、人を愛する。そこには生殖活動はない。人間だけじゃない、鳥だって猿だって、同性間で生殖ではない性行動をする。
その事実を見ても、他者を愛するというのはやっぱり生物学的本能だけでもないんじゃないかと推論できる。
恋愛はそんな風に、性欲と、自己肯定感、他者からの肯定感、近しい関係からの安心感、安定感を満たす。そして、喜怒哀楽のすべてが、汗のようにあらゆる分泌物のようにドバドバと排出される。
自我、は魂の上に乗っている。
現実を生きていくための性格や知恵や思考が、魂に沿って、あるいは反目したり歪んだりしながら、積み重ねるように形成されたもの。
地球で言うなら、大地や海や火山のようなもの。
感情は、その自我から吐き出されるもの、もしくは自動で行われる反射現象。
車に轢かれそうになれば恐怖する。
近しい人が死んだら悲しくなる。
仲間と遊んでいると楽しくなる。
嫌なことを言われたら怒る。
人と愛し合うと嬉しい。
外的要因が、自分という自我に光を当て、それに反射して感情が出てくる。
(瞑想や自己探求の中で、自分で自分に光を当てて喜怒哀楽が出るのもあるけど、その話はまた別に置く)
心と身体は連動しているので、悲しくても嬉しくても楽しくても怒っても、涙が出たり身体が熱くなったり、もしくは冷えたりする。
ややこしい。
これを切り離して捉えるのは、自分の心と身体を乗りこなして慣れてこないと見えてこない。キリストやブッダではない大抵の人間なら、ある程度の年齢を重ねることが必要。
孔子の言う「不惑」は本当で、確かに40代になって、ようやく自分というものが少しは見えてきた(気がする)のは、そういう事なのかもしれない。
論語「吾十有五にして」
子曰、吾十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩
現代語訳:
私は十五歳になって学問を修めようと決心した。
三十歳になって独り立ちした。
四十歳になって迷うことがなくなった。
五十歳になって天から与えられた使命を悟った。
六十歳になって他人の言葉が素直に聞けるようになった。
七十歳になって自分の思うとおりに行動しても、人としての道を踏み外さなくなった。
自我と感情、そこに絡み合う身体的反応、そして欲。
だいたい、こういうもので構成されているのが、心。
もしくは「それが自分」だと思っている、もの。
続きます。
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