Eri Koo Blog

元気があればなんでもできる学習帳

性悪説とドーパミン、蝉たち

朝起きると。
セミの鳴き声で世界がおおわれている。

一斉に羽化し、一斉に繁殖し、死んでいく、蝉たち。
その生命の音。

蝉シャワーだ。

と、思い。
そういえば日本には蝉時雨なんて言葉があったな、人間が思いつくことなんて昔も今も変わらないな、と起床する。

昔は、目覚める度に、なんで生きてるんだろうって思っていた。
なんで生きる必要があるのだろうってずっと答えを求めていた。
けど最近は、今日も生きてるなぁ、って思う。
生きてる。
心臓は鼓動を続けてるし、息も吐いて吸ってるし、ごはんも食べるし運動もする。
周囲の人と関係しあって、会話したり仕事したり、一緒になにか創ったりするし、仲良くしたり仲違いをしたり、出会って、一緒にいて、別れたりする。
洗濯して、洗い物をして、シャワーを浴びる。
めっちゃ。
生きてる。

「人生とは問い続けることなのだ」と言ったのは、ホロコーストを経験し、アウシュヴィッツ収容所を生き抜いた心理学者のヴィクトール・フランクルだ。
では、生きる意味や必要を問わなくなったその先は、何を問うのだろうか。

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ずっと性善説で生きてきたように思う。
人間は根本的には良き生き物で、困ったところや悪意があったとしても、なんらかの事情、環境、疾患、さまざまが要因なあるのだろうと想像してきた。
けれど最近になって、性悪説で世の中を見るほうがストンと腑に落ちることが多いと気づいてきた。
「悪」とまでは言わなくても、人は「弱い」のだと思う。
弱さ故に、嫉妬し、羨望し、僻み、人を出し抜き、突き落とし、その上で何かしらの益を得て生きていける。
弱さ故に、不安になり、将来を憂い、保険的な行動や貯蓄、危険を伴う挑戦的なことは避け、だからこそ生き残っていける。
だって、どんな聖人君子であろうと。
どんなに性格の良いあの子だって。
一ミリたりとも他人を羨んだり、ちょっとずるいことをしたり、不安になったりしたことがないなんてあり得ない。
お釈迦様であろうと、悟る前は自己のいろんな感情に翻弄され、さいなまれている。
人は弱いから、悪いから。
あんなこともしちゃう、こんなこともしちゃう。されちゃう。
そう思って人を見る方が、案外と寛容になれるのだ。
こっちだってずっと楽になれる。
自己肯定感が低いとか劣等感とかそういうことではなくて、自分ではない他人が妬み僻み嫉みを抱くということが、長らくピンとこなかった。
自分以外は割と良き生き物で、正しいことや正しい思いを抱いて生きているのだと思っている「ふし」があった。
人間というもの、他人というものがぜんぜんわかってなかったのだろう(いまだってちっともわからないけど)。
なので嫌われたり批判されたら、そのまま自分が悪いのだろうと思っていたし、いつもそちらが正解で、こちらが間違っているのだと受け取ってきた。
でもどうやら他人は他人でそれぞれの感情があって、それぞれのネガティブだったりポジティブだったりする思いがあり、それをたまたま目の前にいるその感情を向けやすい人に吐き出しているだけ、という場面だってあるのだと、ようやく知る。

自分のことだけに夢中な時期を過ぎ、中年期に至ってようやく他人が少し見えるようになったのかもしれない。

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人は弱い、悪い。

人をいじめると快楽物質のドーパミンがそれこそドパドパと出てくるらしい。
「自分は正しいことをしている。相手は間違っているのでそれを正してやるのだ」という行動は、正義の名の元での快楽行動なのだそう。いじめも、上司による過剰な部下への叱責も、国民の鬱憤のスケープゴートにされた芸能人を叩くのも、政権を口悪しく批判するのも、マスク警察だ自粛警察だワクチン云々なども、ぜんぶドーパミンが出ちゃってるのだ。
ちなみにギャンブル依存症の人、子どもを車に放置して死なせてしまうような中毒者にも同じくドーパミンが出ている。
そのあまりの快楽に、やめることが出来ないのだ。

ついでにこのドーパミンは恋愛時にも分泌される。
3年目の浮気、なんて古い歌があったけど、だいたい3~4年で分泌されなくなるのだそう。
先の話もそうだけどドーパミンが出ると「正気を失う」。冷静な判断力が低下する。でもそれは繁殖のためには必要で、新しい好みの相手に出会った時に正気を失わせて、繁殖行為を行うのは至極動物的道理にかなっている。
よく、明らかなダメな人に惚れてズタボロにされ、周囲の人間がどんなに説得しようとも別れない人というのがいるがドーパミンが出ちゃってるから、理にかなった人の話なんて聞けないのだ。

そして人の脳というのは「楽をしたがる」そうで、なるべく自分で物事を決めたくないらしい。なので何もかもを誰かが決めてくれるのは、快楽だと受け取るのだそうだ。
かく言うわたしも、ネットでなにか物を買うときはたいていレビューをチェックする。自分で買って自分で試して失敗するよりも、他人の評価に頼って楽をしているわけだ。だって合理的だし、効率いいし。なんて、なんとでも理屈はこねれるし、誰もが納得する。
もしくは信頼できる人や友人、プロのアドバイスはそのまんま受け取って実行する。自分が良いと思ってる人が良いというんだから、間違いないだろう、と他人の決定をまるで自分の決定のように執り行う。楽だ。

そんな風に、快楽物質とか脳の機能とか他人の意見で、いとも簡単に何かを決定し行動し、少々悪いこともやってしまうのが人というもの。

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人類の歴史、脳科学、心理学などをずっと読んでると、自分の意思や決定、思想なんてものは。このところ気づいたことも含めて。
そのすべてが、誰かの意図したものだったり、社会が求めたものだったり、同調圧力だったりするんじゃないかと思うほどだ。
例えばLGBTQに関してだって、いまの社会の状況がそういった「個」の能力に優れている人を求めているから急激に社会が寛容になった(かのように見せている)という経済的な流れがある。単に彼らが必要だから。別に人の意識が向上して差別意識が無くなったわけでもなんでもない。各地で起こった民族的な差別運動だって、似たような経済的な意図が裏に含まれているんだろう。
なんせ20年後には日本の人口の半分は独身になるのがほぼ確定されている(離婚・死別を含む)。家族という集合単位で生きやすい者よりも、「個」に強い方が生き延びやすい社会へと変容していくのだ。
だからどこでだって、やたらと「個」という単語が出てくる。
歴史は集合と分断を繰り返すので100年も200年も経ったら、また「集団」が取りざたされるのかもしれない。知らんけど。

そういった意味で。
果たして、本当の「自分」なんてものがあるのだろうか、と問うてしまう。
そんなにも外側は環境や社会や資本主義や経済や政治、同調圧力、親の思想などに囲まれ。
はたまた自分の内側、身体の中でもコントロールが難しい快楽物質が出たりして愛だの恋だのにしても不安定極まりない。
さも自由意志で行動しているかのように認識しているが果たして本当にそんなものはあるのか?

まるで集団で飛ぶ渡り鳥のように。
完璧に分業を司り、集団としての生物である蟻のように。
生き残るため、集団としての役割を「受信」して、その通りに動いているだけなのかもしれない。

けれど、やっぱり、ある。
「自分の答え」というものが、腹の奥の方にある。
体感としか言いようのない、なにかを決定したとき、言葉にしたときに「しっくりくる感じ」というものがある。
自分にウソがない感じ。
誰にもそれを納得してもらう必要もない。
誰かを説得してそれに同意してもらったり、従ったりして欲しいわけじゃない。
ただ、自分が自分に下す決定。選択。
一秒一秒、その「ウソがない感じ」に従って生きていくしかないのだなぁと、思う。

そんなことを考えてたら。
ずっと、なんで生きてるんだろう、って問い続けていたのが。
生きるってなんだろうな、って問いに変わっていた。

今日も今日とて生きてるけど。
生かされてるけど。
この生とはなんなのだろうと。
一生かけて問うていくのかもしれない。

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読んでいただきありがとうございます☆祝福アレ♪

 

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